須田一政、釜ヶ崎を撮る:戦慄のイメージを探す自己行為としての写真

須田一政(左)とマーク・ピアソン。

アジアと日本の写真のコレクター、Zen Foto Galleryのオーナー、そして、shashashaのファウンダーでもあるマーク・ピアソンが、写真家・須田一政に、 大阪のドヤ街(日雇い労働者の街)釜ヶ崎を撮影して欲しいと頼んだ。1980年代後半、バブル真っ只中の東京に移り住み、街が急激に変貌していくのを見た ピアソンは、「古い東京」が残っている地域はないかと探すうちに、山谷や横浜の寿町に足を運ぶようになった。このような地域は長い間、多くの写真家や作家の興味の対象、被写体となってきた。中でも、井上青龍のデビュー作『釜ヶ崎』、百々俊二の 『新世界』、エドワード・フォウラーの『San‘Ya Blues』はピアソンに強い印象を与えたという。「私が見たことのある須田さんの作品は、関東で撮られたものばかりでした。須田さん独自の視点で撮られた、古い大阪が残るドヤ街・釜ヶ崎の写真が見たかった。」と、ピアソンは依頼の理由を語る。須田はピアソンの依頼を受け、shashashaは、6月15 日に行われた須田の撮影に同行した。

須田一政は、疑いなく日本写真界の宝である。民族学的な主題や事物を主観で取り押さえるスタイルは、20世紀後半の日本の写真界に衝撃を与え、その影響は未だ色濃い。同時に、須田の作品は、ジャンル付けやポジショニングをすり抜ける様な性格を持つ。須田はインタビューで「評論にからめとられなくない」と語ったことがあるが、確かに、時に異様で、時に官能的で、あるいは劇的で、またはノスタルジックでと、多様な顔を持つ須田の作品は、批評を跳ね返す様な強度を持つ。また、写真作品の持つ重厚感に反して、撮影スタイルは実に自由で、即興的で、ストリート・スナップ的に見られる。

日本の写真の興隆期と言われる60〜70年代に写真家としてのキャリアをスタートさせながらも、須田の作品や活動は、大学闘争などの政治運動と連動したドキュメンタリー写真や、当時の写真界を席巻したムーブメントには発端・帰属しない。プロヴォークやコンポラに少しでも共感したことはあったかと尋ねた私たちに、笑いながら(おそらく何百回と同じ質問を受けたのだろう)しかしきっぱりと、「全く関係ないです」と答えた。彼の写真は常に自身の興味のみに関係するという。

視線を逸らす

「かわいいねー!」須田がシャッターを切る度に、数十メートル離れたところからドヤ街の住人の声が飛んでくる。

ピアソン、モデル、須田の奥さんよし子さんを含めた10人程度の撮影集団に、釜ヶ崎の住人が視線を送る。須田はそれらの視線とせわしない往来をすり抜けるようにして撮影場所を探し、モデルに立ち位置を指示し、シャッターを切る。モデルを撮る須田を見ることは意外であった。『恐山へ』や『東京景』など、土地に住む人たちが被写体となる須田の作品ばかりを見てきたからだ。私たちは、これが釜ヶ崎を撮影するにあたってのコンセプト、もしくは新しい試みなのだろうと考えた。しかしすぐに、モデルを撮ることは急遽しつらえられた策だと知ることとなる。

 

撮影中の須田。

労働者デモの告知パネルを前に。

商店街の一角が更地になっていた。剥き出しになった壁とモデルを撮る須田。

日本人形、帽子、ベルトに囲まれながら。

ドヤ街の中心にある三角公園にて。群生する立葵の前での撮影。

「写真、あかんで」という声が聞こえる。寄ってきて注意する者もいる。ドヤ街に住む者の中には何かから逃げている者もいるし、追ってきた男曰く「傷のある奴もいる」し、一本先の通りで賭博が行われていることもある。ゆえに何者かがこの街を撮影していると知れば、人々は警戒し、街に緊張が走り、雰囲気が変わる。 須田は、前日にこの街で撮影を始めたが、住人たちの視線によって辺りは異様な雰囲気に包まれ、撮ることが非常に難しかったという。そこで、モデルをたてることで、ドヤ街の住人に、彼らを撮るのではないと認識させ「直接的な視線をずらす」ことにした。

その難しさを差し引いても、釜ヶ崎での撮影は「挑戦」だったと、須田は撮影後に私たちに明かした。「僕は、東京の下町を長い間撮っていまして、事物と対面して即興的に撮るので、どんな場所に行ってもすぐ撮れるように見られるんですけれど、実は僕自身、内弁慶で、違うエリアに行っちゃうともう駄目なんですよ。精神的な萎縮のほうが大きくて。例えば、一週間で撮るっていうのは結構大変なので、東京の街にも何回か通っているんです。だから、初めてのところをすぐに取り押さえるというのは、すごく大変。」そう話す須田の横で「無理なことを言ったと思います」と恐縮するピアソンに一同が笑う。

場所の持つ哀感

釜ヶ崎での撮影を終え、一同は関西最大級の赤線地帯、飛田遊廓に車で赴いた。料亭の様な外観の「ちょんの間」が軒を並べ、それぞれの玄関が赤やピンク色の光を放つ。中には肌を見せた若い女性と年長の女性が一人ずつ座っている。この地域は、釜ヶ崎よりも更に撮影にシビアである。車の中からシャッターを切った私た ちを見つけた女性が追ってきた。彼女は私たちの車の窓を叩き、写真のデータが削除されるのを見届けるまでそこを動かなかった。

須田は後で私たちに語った。「京都の中書島だとか、五番町とか、大阪の飛田だとか、遊郭に興味があるんです。その古い造り、映画の舞台装置みたいなものには、詩的というか古い哀感のようなものがありますよね。人間の持っているというよりも、建物とか家屋が持っている渋みというか。エリアが持っている辛さと言っていいかもしれませんが、そういうものが、庶民というか、下町の人の顔に刻まれているのかなと気づいて以来、下町の人の顔やお祭り、それらの風景との関係を撮るようになりました。」

写真家として生きていくことを決め、寺山修司主催の天井桟敷の専属カメラマンを辞したばかりの須田の初期代表作品『風姿花伝』や『恐山』シリーズには、象徴的な土地を背景に伝統的な衣装に身を包んだ人々を撮った、どこか「舞台的」といわれる様な写真が多いように見られる。須田写真のイメージは、概して、そのような作品に結びつけられていると言えよう。しかしながら『角の煙草屋までの旅』など、代表作に隠れがちな——いわゆる身近な事物を撮った——作品も合わせて見ていくうちに、須田写真の特徴は舞台性の強さに依存せず、「非日常」と「日常」の間に隔たりを設けない須田独自の視点に基づくものであると分かる。

イメージを集めて繋げる

今、 須田が一番興味のあるものが、映画だという。それをヒントに、非日常と日常との間を自在に行き来する、須田写真の意図のようなものを掴むことができそうだ。「今、古いビデオ映像、昔見た映画を観ているんです。映像的にも決してスムースではないんですが、ほのぼのというか、良き時代の日本といったものがそこにあって、落ち着くんですね。最近では、そういった青春時代に観た映画のワンシーンと現実の風景とを混同しちゃって、どっちがどっちなのか解らなくなっちゃっているんです。どこか昔風の街が好きなんですが、そういうエリアを歩いていると、昔読んだ本とか、映画とかのイメージが、現実の風景に重なってくるような現象が顕著になっていて…。日常を歩きまわってそういうものを拾い集めて、頭のなかに浮かんできた風景をアレンジして、繋ぎ合わせて——ひとつのト書きにするのではなくて——何かできないかと考えているんです。」

虚と実

「イメージを見る」ことは、須田の写真に強い影響を与えてきた。須田は写真家になることを決める前に、自身の住む神田の写真館に、写真集を見るために通い詰めていた。同時代の作家であるアーヴィング・ペンやウィリアム・クラインなども好んで見ていた。そういった「見る」対象が、今では映画になった。須田はその理由について「ストーリー性に興味が出てきたこと」と考える。「以前は、ワン・テーマ、こんな気持でこんな街を撮りたいという気持ちでやっていたけれども、最近ではイメージとイメージのつながりで、頭の中に見えた青春時代の何かを表現したいと思っているんですね。」よし子さん曰く、「昔見た映画の、いわば『虚』のイメージが自分にとっては『実』で、その後何十年も経って、その場に立って、その眼前にあるイメージが実なんですけれど、それが本当は虚なのではないかと。だからもう、虚と実は俺の中で関係ないと、日常とイメージがもう一緒だと。」須田は続ける。「もう47歳になって、いや、74か(一同笑)、 歩行もヨレヨレしてるし、物事も忘れやすくなってしまっているんですが、そのことが、僕が今考えつつある、おぼろな中のリアルというか、真理といったものに加担してくれるんじゃないかって、自分が良いように考えているんです。」

批評家が須田の写真について語る時に使われる定番の表現がある。それは「異界のものが写っている」や「日常と非日常の裂け目」などである。しかしながら、須田の話を聞いていると、どちらかといえば、懐かしい風景や自身の原風景のようなものを捕まえようとしているように感じられる。そのギャップについて訊いてみると「それは僕、分からないんですよ。自意識できないんですよ。異界の作家性とか言われるんですけど、僕自身にはそういう感じはなくて…。」しかしながら、須田はある時、彼の作品に「異界」を見ているのは批評家だけではないと気づかされる。それは、2013年、東京都写真美術館で開催された須田の回顧展 「凪の片」の際だ。須田は、写真美術館のウェブサイトのフィードで、来場者のコメントを見た。そこにはやはり「異界」とあった。「みんな、そんな風に思っているんだ」と驚き「自分はそんな意識はなかったけど、逆に、みんながそんな風に見ているということが分かってよかった」と喜んだそうだ。須田にとっては異界も日常の中にあるということだろうか。または、観る者の記憶や感覚を呼び覚ます様な作用が須田作品にはあるのかも知れない。

フェティシズム、憧憬、スティル・イメージ

「変な話になるけど、そういうことにも猛烈に興味があるんですよ。フェティシズムというものに。『憧憬』という言葉に置き換えられるのかは分かりませんが。少年時代に『見ちゃいけないよ、早く帰りな』って言われながら覗き見た大人の雑誌、その写真を垣間見た戦慄。その記憶が、スティル、要は止まった映像として 脳裏から消えなくて、未だに狂いそうなんですよ。」須田の近作に『Rubber』 という写真集がある。ラバースーツを着た女性を撮ったものだ。 須田はその巻末に「ラバーの快感に倒錯するマニアを被写体とすることよりも、自らが倒錯した傍観者で在りたかったのである」と書いている。「モデルさん自身そういう嗜好のある人で、彼女は、ラバーが、別れた自分の好きな彼に抱きしめられた感があると言っていました。現実の中で、自己行為として、ラバーのようなものにキュッと包まれると、妄想みたいに記憶がフィードバックして、というのがリアルな話だなと思って。そういう些細な経験が、何らかの形と結びついて、鮮烈に人生を左右するような…。映像ってそういう風にありたいと思っているんです。だから、そういったものを探しているわけなんですけれども、ごく小さな変化みたいなものを自分自身で見逃さないことが、シャッターチャンスを遥かに超えて、自分の行為の原点を変えてくれるのかなと思っています。批評とか、人の感想もそうで、他人によって、自分を変えられますよね。写真殺法とか、忍術じゃないですけれど、そういった写真術みたいなものに今、一番興味があるんです。自分の作品で自分が変わっていくっていうのが。今までは褒めてもらうと『嬉しい、嬉しい』だったんですけれども、最近では『ちょっと待てよ』みたいなことがけっこう多くなって、なんか、今までと違うものが撮れそうだなって思っているんです。」

モデルをたてたことも、本来はアクシデントだったが、何か変化を生んだのかも知れない。「そうですね。決定的に撮れない、撮りにくいエリアが仕掛けとなったかも知れないですね。モデルさんをセッティングとしたことは、直接的には思いつきなんだけれども、その思いつきも含め、結果として、想像しているものができるかな、と。」

下町や恐山に通ったように釜ヶ崎にまた来るか、という問いに、須田は「盆踊りの時に。盆踊りの時にみんな踊るので、みんな揃うそうなんです。昨日ある人に聞いたんです。それがいいかなと思って。8月ですね」と答える。「あの三角公園で、あの人たちも踊るんですって。その時はカメラ向けても大丈夫。」とよし子さん が言った。

須田一政の写真集はこちらより

関連書籍:

企画:大西洋
取材・構成・文:小出彩子
Special thanks to Edward Pearson