Showa Trilogy|Kazuyoshi Usui

多彩な活動を見せる写真家・薄井一議が、2000年初頭からはじめた写真プロジェクト”Showa”シリーズ。写真集『Showa 88』『Showa 92』に続き『Showa 96』が刊行され、シリーズ全三部作が完結した。もし「昭和」が別の時空で続いていたら⋯⋯。「昭和」を「生き抜く力」の象徴と捉える、独自の世界観について書き下ろしたテキストを、shashashaのために特別寄稿いただきました。

showa 96
showa 96

いかがわしさの美学

“昭和”が付くからと言って、別だんノスタルジーを追い求めている訳では全くない。これはカメラという今、現実しか写らない道具を使っての、僕なりの白昼夢である。
“昭和”、この言葉を“生き抜く力”の象徴と考える。
昭和がまだ別の時空で続いていたらどんな世界か、そんなファンタジーを追い求め、平成の終わりに第三弾が完成した。

言霊とは、本当にあるようで“平成”とは平らに成り立った平和と豊かさの時代だったと思う。先人たちのおかげで日本という国が完成してゆき、平均的で安定した熟成期間を過ごして来た。
しかし、この豊かさを背景に通過儀礼のないまま大人になってしまい、どこか精神的に満たされず、このままで良いのかという不安を抱えている時代であった事も事実である。
僕も少なからずとも、その気持ちを持っている一人であった。

そんな中、足元のマンホールを開けると、その向こうでは平成が訪れず昭和がまだ続いている、並行的時間軸のパラレルワールドがある。そこでは人間の力では到底及ばない震災なども並行的に起きていたに違いない。だだ違うのは“生き抜く力”の発散があるのか、ないのか。そこにテーマを絞りこのプロジェクトに取り掛かった。

第一作目『Showa 88』では、大阪西成、飛田新地、京都 五条楽園、千葉 栄町等で撮影されている。この場所では、苦しいぐらいの生きることへの渇望が満ちあふれている。街に配された原色の色の数々は、人々を視覚から奮い立たせている様にさえ思える。
“生き抜く”、そこには矛盾が生まれることがあると思う。生きてゆく以上、白か黒かでは決められない、グレーゾーンが存在する。コンピューターのように“1”か“0”では決められない、人間ながらの複雑性が存在する。それは旅芸人や見世物小屋にある興業の世界にも存在するし、いたこや三味線弾きの世界にも、その時代の背景がある。また、青森の霊場に存在する人形婚なども、グレーゾーンの上に成り立っている心の救いの文化なのかもしれない。そのことを、表の世界だとか裏の世界だとか、ホントだとか嘘だとか、究極的答えを追い詰めない、共存できる安全地帯が昭和の時代にはあったように思う。
僕はグレーゾーンこそが人間臭さであり、シリーズ通してそれを求めてきた。そこに存在する“いかがわしさ”は、自分の信念を貫いたうえに生まれた美学のように感じ、崇高ささえ感じる。
Showa 92』では、最後の見世物小屋とされる大寅興行社を花園神社にて撮影している。そして、そのヘビの写真が表紙になっているのだが、僕が撮影した翌日、動物愛護団体を名乗る一本の電話によって、長年続いていた興行に幕を下ろしてしまった。(今は大寅の小屋を使用して演劇の方々が興行を行なっている)

showa 92
showa 92

三部作を通して撮影してきた場所はこんなところがある。
大阪 西成の旅芸人小屋、飛田新地、鶴橋、京都 五条楽園、千葉 栄町、岩手 大槌町の一本道、岩手 釜石のタンカー、佐賀の秘宝館、静岡の闘犬、青森 五所川原の川倉賽の河原地蔵尊、恐山、新宿二丁目、歌舞伎町、花園神社の見世物小屋、沖縄の元ヤクザの三線ひき、渋谷 百軒店、上野動物園、佐賀のお化け屋敷制作会社、伊勢 御田植え祭、国立競技場。

オリンピックを目前に街は浄化されてゆき、日本も新しいステージに入ろうとしている。日本が切り替わるにあたって、切り捨てられてゆく文化もある。
それはかつて日本の歴史の中で“士農工商”には入れなかった人々、その人々が生き抜く為に作ってきた文化があった。平成になり日本全体が平均化されその文化は、時代に中和されながらも残っていた。が、今だんだんなくなろうとしている。故・小沢昭一氏が音にてそれを記録してきた様に、生き抜いてきた証を少なからずとも、この写真集にて記録できた事を誇りに思う。
そして、これらの多くの場所に花が存在したことも記しておきたい。人間のいるところ花がある、安っぽい油にまみれたプラスチックの花もあれば、高級な花もある。どんな場所にもおもてなしの心意気がある事が人として愛おしい。(『Showa 88』では飛田新地にあった花が表紙になっている。)

showa 88
showa 88

最後に、写真的手法として様々なものからの影響が散りばめられている。
まず感謝したいのは、画家の金子國義氏。僕が社会人になったころ、ご縁があって色々な事を教えて頂いた。彼のアトリエとしている昼夜逆転の屋敷に行き、そこで鏑木清方や小村雪岱の色彩を知り、宮川一夫のカメラアングルを知った。また、ジョン・ウォーターズの“良い悪趣味”を知ったのもここだったかもしれない。多くのものが僕の引き出しとなり、この作品に影響している。また氏から影響を受けた“対極の美”もこの作品の根底には流れている。“崇高さといかがわしさ”“恐怖と滑稽”“東洋と西洋”“生と死”その表裏一体を画面の中に植え込んでいる。
その60年代から続く日本のアンダーグランド文化の象徴である屋敷も、主人亡き後、今年なくなろうとしている。『Showa 96』では、この場所も僕なりの方法論で記録されている。

この写真集は是非、三冊の写真集を並べて同時にページをめくって頂きたい。
一冊で見る“横軸”の楽しみ方もあるが、三冊で見る“縦軸”の楽しみ方もできる。美しい造本は町口覚氏によるものだ。

僕はこのシリーズ三作を通し、むせ返る人間臭さを求めカメラを握り彷徨ってきた。自分の嗅覚を頼りに、その本人を撮影し、時にはその場所から感じ取りストーリーを構築させる。
写真という虚実入り混じった矛盾のメディアを使って、人間の表と裏との摩擦熱を写し出してきたつもりだ。これは平成の時代に生き、どこか満たされない僕自身の写真を使った穴埋め行為だったのかもしれない。
漂白されてきた日本に少々嗅覚が鈍りながらも、これからもこの人間の匂いを追い求めてカメラを握りしめてゆきたい。

今年、平成が終わる。でも昭和はまだ終わらない。
多分、そのはずである。

                    令和元年を目前に                                薄井一議

showa 92
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showa 96
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