地平 第11号 写真家からの寄稿

地平第11号のメンバー7人から復刊への想いを寄稿いただきました。

「カメラはぼくらの武器だ。」、から続く黒沼さんの言葉がある。
戦いを想像した。時代も想像した。
何度も読み返し、このメッセージに対する自分の答えを考えてみる。
たぶん、私は今まで、カメラをもっともっと個の感動のために使ってきたと思う。
うーん、真逆である。
写真の持つ、具体的で、直接的な「現実を突きつける力」、その魅力が、私のこれまでの写真創作においていつも壁になっていた。

「大阪」というキーワードは、今私が立っている場所、とする。
いつか着地しないといけない場所、だとも思う。
撮影したのは「モデルハウス」、いつもの制作過程の中で出てきた疑問で、その答えを探しに行った。
この地平での撮影がきっかけで疑問はさらに大きくなり、後日、私は内モンゴルに行くことになる。

今、もう一度メッセージを読み返し、考えている。

赤鹿麻耶



 「地平」創刊号の巻頭の宣言文を知ったのは、写真を始めた24才の時だった。  それ以後「自己表現に終始する回路を断て。」「見たいのはきみの写真ではなく、きみの写真が開示する世界なのです。」という眩しく先鋭的な言葉が自分の写真の作業をしていく上での基軸となった。  しかし、今回改めて読み直してみると、「武器」(「カメラはぼくらの武器だ。」)や「凶器」(「写真は閉塞した感性を脅かす凶器のようなものです。」)といった尖った言葉が眼に突き刺さってきた。  この文を書いた黒沼康一氏は、当時このような挑発的な言葉を使って写真行為をする者を煽っていたのだった。  決して忘れていたわけではなかったが、長い年月の間にそれらの言葉の記憶は薄れてしまっていた。  三十数年前の時代の記憶の断片をともなって、このふたつの言葉が、また、今、私を挑発した。  今回の企画を聞いた2018年1月初頭から3月末まで、カメラを「武器」とし、閉塞した感性を脅かす「凶器」として、大阪の街を走り抜けた。

阿部淳



黒沼さんのアジテーションを読み、自分の写真の考えのもとが「地平」だったと気づきました。写真に出会って、カメラを外に向けると、世界が自分の思っているより広いことが分かりました。自分の想像以上に広がる世界がそこにあることを、写真は教えてくれると思います。

被写体の彼女(ひつじちゃんと呼ばれています)は、男性として生まれ別の性になりたいと願っています。2週間に一度のホルモン注射や、服やメイクのおかげで、なりたい自分に近づいているようですが、忙しくてホルモンの注射ができなければ髭が伸びてしまうそうです。

地平の話が決まった同時期に、大阪の名村造船所跡地で展示に参加する機会がありました。もとは造船所の倉庫で、今は多目的スペースとして活用されています。ここを訪れたときに、ひつじちゃんの髭と、放置されたコンクリートの隙間から生える草がそんなに遠くないことのように感じられました。

人間の不思議に、自然の秘密に、写真がその近くまで連れて行ってくれる予感がします。写真を信じて、撮り続けるしかないのです。

浦芝眞史



地平の文章に初めて接触したのは、1998年度卒業制作展の会場入り口のパネルだった。
「見たいのはきみの写真ではなく、きみの写真が開示する世界なのです」
写真全体の核心が平明な言葉で論理的に語られ、さらに優しく言い聞かせるような口調で締められていて、
若い心にすっと染み込んできた。
漫然としていた写真への疑問が、明るい道筋にむかって整頓されていくのを感じた。
写真にだけできることはなにか。

そして再度、言葉が提示されたのです。
2018年の正月。百々俊二先生のお宅の庭で寒空の下、配られた文章を読んだ。
地平メッセージの全文。武器、閉塞した感性、凶器、、、激しい言葉の連打。
こんな前文があったとは。
「自己表現に終始する回路」を断つための具体的な行動があったかを自省すると同時に
20年を経て、また新しい道筋がつながっていく予感があった。
地平の全10号を見せて頂いた。
写真の青春、が時空を超えて物質化して目の前にあった。
即答で参加したいものは人生でめったに無いと思います。

野口靖子



2018年の1月2日に百々先生のお家のお庭にあるテーブルを囲んで「地平」復刊の話しをいただきました。
たしか、その話しを聞いている最初の方は、自分も参加するかどうか半信半疑だったと思います。「やらないか?」と言われた時には、黒バック、抜き文字でプリントされた地平の宣言文が目の前にありました。地平復刊の話しが続いている中、それを読んでいました。今思うと、たった6行だけのこの宣言文によって、20年写真をやり続けてきた中で溜めてきた澱の様なものは吐き出され、真ッ新な器のような状態に戻してくれた様に思います。

自己表現に終始する回路を断て。

写真をやり続ける中で自らの内側からこのような言葉が生み出されうるかと考えてみるとそれは無理な様な気がしました。僕にとってこの宣言文はどこか遠い向こう側の何も見えない所から聞こえてくる声のようでもあります。
そこから聞こえてくる

見たいのはきみの写真でなく、
きみの写真が開示する世界なのです。

僕はその先に行く方角をほんの少し定める事ができたように思いました。

山田省吾



2018年、1月2日。
年が明け、大阪、難波の街は賑わっていた。
そんな中ふらふらと歩いている時、
地平復刊への参加のお電話を頂いた。
思わぬ急なお話で、その後、蕎麦屋に入って暖かいお蕎麦を注文したものの、なかなか喉を通らなかった。
1月10日。百々俊二氏が印刷して下さった1枚のコピーを手渡され、黒々としたモノクロのその紙には、

『カメラはぼくらの武器だ。自己表現に終止する回路を断て。写真は閉塞した感性を脅す凶器のようなものです。見たいのはきみの写真でなく、きみの写真が開示する世界なのです』

と書かれていた。
その言葉のエネルギーは凄まじく、何度も繰り返し読み、自分なりに解釈し、おとしこもうとした。

1972年4月。私が産まれる13年前。
テレビやSNSで見たり聞いたりする、激動の時代に発刊された地平。
私がその時代を知るにはやはり、写真、映像、本、残されている物に頼るしかない。
その時代と共に生きた地平の復刊。
とにかく撮ろう。
撮るしかない。そう思うばかりでした。

2010年。
私の元に、1つの重い箱が届いた。
ビジュアルアーツ専門学校の教材がどさっと入った箱だった。
その中の1冊、いつの時代かわからない、中年男性がずらっと並んでいる表紙が目にとまり、すぐにページをめくった。
阿部淳氏の『市民』だった。
心が動くとやたらと心臓がドキドキしてしまうのだけど、ページをめくるたびにそれこそドキドキが止まらなかった。
写真についての知識は皆無だった。
ただ、『市民』の中の街や人々、
それは間違いなく生きていて全てが愛おしく感じた。そして、出会い体感する、見る見つけるという事を感じ、とても救われ、感動した。

この世界、そしてこの世界で生きる人々は、それだけで充分に美しい。
私にはそう思えた。

と、同時に漠然と私が探していたものやその答えもそこにあるんではないかという感覚に包まれた。
その後、初めて授業でカメラを握りロケに出て改めて街や人々と向き合った時、それに似た感覚と同じ様なドキドキが止まらず、そこから路上スナップを撮るようになった。
そんな事も思い返し気づかせてもらえた今回の地平の復刊。

地平の復刊とそれに関わる皆様、この機会を作ってくださった皆様とのご縁に、とても感謝しています。ありがとうございます。
そして、私自身やっとスタートラインに立てような、やっと向き合えたような。
そんな気がしています。
これからも街と今を生きる人々と、
共に生きていけたらなと思います。

松岡小智



地平は1972年4月に創刊した。

大阪万博は終了。70年安保反対運動は条約の自動更新を阻止できなかった。白黒テレビの普及率は90%に達していた。
2月になると、追い詰められた学生運動の生き残り、逃亡中の連合赤軍メンバーたちが群馬県でリンチ殺人、長野県であさま山荘銃撃戦を惹き起こす。
この攻防戦テレビ中継を食い入るよう見た。テレビの速報性(同時性)の力を改めて認識することになった。
博多で写真活動をしている学生、教員(20〜24才)だった仲間と何を撮るのか、撮ってもどう発表すればいいのか、自分たちの写真表現の現状を突き詰めれば迷走するばかり。九州にいても、中平卓馬、森山大道、高梨豊などが発行するProvokeの写真やことばに触発された。東松照明の沖縄、荒木経惟の「私写真」に共感した。政治的には右でも左でもない私たちだったが、世界を感知し、出会いの関係なしに写真は撮れない。

自己表現が先行する写真は、写真の意味を、あらかじめの見方を一方的に示すのではないか?そのような写真は写された被写体の物質性、固有性はどうでもよくなる。写真家の美意識の提示は手段であるだけだ。中平卓馬はベトナム戦争のソンミ村虐殺の報道写真が殺す側の視点であり、東大安田講堂の攻防戦の報道写真が機動隊の視点でしか撮られないと批評した。
写真では、そこに写し出されている対象がそのまま写真家との関係を表現してしまう。「ブレ・ボケ」は作家の身体、身振りを意識させることによって写真の客観性、神話を突き崩す。
ことばで表現できない部分にこそ写真表現の存在意義があるのでは、など、焼酎をあおって激論していた。東京では同世代の写真家たちは、自主ギャラリー(プット、プリズムなど)で自分たちの写真を「場」から発信することを始めていた。博多からでは印刷物しかない。写真集出版を目指した。

理論の中心に黒沼康一がいた。彼のことばや批評に挑発された私にとっては、黒沼のことばを超える俺の写真を認めさせてやる、闘う相手でもあった。

地平メッセージ 黒沼康一
「カメラはぼくらの武器だ。
自己表現に終止する回路を断て。
写真は閉塞した感性を
脅す凶器のようなものです。
見たいのはきみの写真でなく、
きみの写真が開示する世界なのです。」

オフセット印刷の地平1号250円。
1972年4月1日発行。若かったあの頃、つっぱっていた。

5月15日に沖縄本土復帰。沖縄はベトナム戦争の直接の発進基地だった。返還後も米軍基地からはベトナムへと飛び立っていた。7月、田中角栄内閣誕生、日本列島改造論が始まり、日中国交回復。こんな時代だった。

1号発刊から10号まで不定期発行で5年間かかった。特に10号は4×5インチのカラーだった。それまでとは手段と方法が大きく変わった。(個人的には1990年代、2000年代の仕事『楽土・紀伊半島』『大阪』『日本海』で、8×10カメラの表現手段を取ったことに大きく影響する作業だった。)
1977年の休刊は集団を組んでも結局は個人でしっかり自立していくことにつきた。
創刊から半世紀近く経った。黒沼康一は4年前に「あの世、向こう岸へ」。他のメンバーで写真を続けている人を私は知らない。

2017年12月に「IN PRINT, OUT OF PRINT表現としての写真集」(入江泰吉記念奈良市美術館)で、写真制作のプロセスを明るみに出すという企画展を開催したディレクターのCASE代表・大西洋氏から、地平は写真集制作の原点のような行為だからと展示の要請があり、その折、再び約50年を経て11号を制作しませんかと打診を受け心にとめていた。

2018年1月2日。家族と友人たちと新年会を毎年やっている。ほぼほぼ写真を撮っている連中ばかりなので、いつも近況活動報告のようになる。
阿部淳以外は誰も地平を見たこともないので、1〜10号を見せた。
やはり黒沼康一のアジテーションは強烈だったようで「自己表現に終止する回路を断て」が自分たちに当てはまるようで思考を巡らせていた。「見たいのはきみの写真ではなく、きみの写真が開示する世界なのです」に挑発され11号をやると決めた。後日、20、30、40、50、60、70代の各世代の女三人・男四人のメンバーを決め「大阪」をキーワードに2ヶ月間で撮影することになった。

今なぜ「地平」なのか。
黒沼のアジテーションを頭において、各世代の写真表現のアプローチが何を生み出すか?

私自身は観る能力、眼力の劣化、ああ今だとシャッターを押すタイミングがずれる、落ちていると、自覚しながらも街をひたすら歩いた。

作者と作品は一体のもの、世界の自己開示、見ること、出会うこと、ディスタンスが大切、現場に居合すこと。ここにいた!ここにいるよ、というような写真の特性を継続する手段も35ミリ、方法、フィルム・モノクローム、四人。デジタルカラー三人。

路上にこそ見るべきもの。表現すべき世界がある。

百々俊二