写真評論家。愛媛県松山市生まれ。1922年(大正11)東京帝国大学文学部美学美術史科卒業後、美術史研究室の副手を務める。専攻は西洋美術史、主として初期ルネサンス。27年(昭和2)に副手を辞めてからは37年まで、日本大学、聖心女子専門学校などで講師を務めた。1920年代末ごろ『ディ・フォルム』Die Formや『ダス・ノイエ・フランクフルト』Das Neue Frankfurtなどの外国の美術雑誌を通してヨーロッパの新しい美術運動を知るにおよび、西洋の近代美術を研究するようになり、新しい写真の動向に興味をもつ。31年ごろから「綜合ジャーナリズム講座」というシリーズを出版していた内外社に出入りしはじめ、大宅壮一(おおやそういち)、林達夫、劇作家の高田保(たもつ)、映画製作者の岡田桑三(そうぞう)(1903―83)らの知遇を得る。ここで、31年に設立された日本とソ連の文化交流をめざす民間組織「ソヴエート友の会」発行の月刊グラフ雑誌『ソヴエートの友』の編集長に請われて就任する。その後、谷川徹三から評論家の秋葉啓(1921―98)を紹介されたのを契機に、32年5月に野島康三(やすぞう)が出資者となって創刊した写真雑誌『光画』創刊号に「写真に帰れ」を執筆。従来の絵画的な「芸術写真」を否定し、写真本来の「機械性」を基礎においた新たな写真美学の確立を説いたもので、日本の近代的な写真論の嚆矢(こうし)となった。2号からは『光画』同人となり、先鋭的な評論や海外作家紹介などに健筆をふるった。
33年には名取洋之助、木村伊兵衛、原弘(ひろむ)、岡田桑三らと報道写真や商業デザインの制作を主とする日本工房の創設に参加。34年3月日本工房主催で「報道写真展」を開催し、そのときに出版した小冊子『報道写真に就いて』のなかで「ルポルターゲ・フォト」を「報道写真」と訳してこの分野の方法論を体系づける。この写真展の直後日本工房は分裂、伊奈はともに脱退した木村、原らと中央工房を設立。同年に中央工房の対外写真配信部門として国際報道写真協会を設立し、会員として参加。その後内閣情報部で映画、演劇、音楽、芸能などを担当する情報官として日本の対外文化宣伝に関わる。
第二次世界大戦後も写真評論家として活動を継続し、特に日本の写真史を世界写真史のなかに位置づける写真史家としての仕事が特徴的であり、59年(昭和34)には目で見る写真史年表ともいうべき『世界写真全集 別巻 歴史的展望』を編集している。そして、雑誌『フォトアート』に64年から68年にかけて連載した「近代写真の成立と発展」は、新興写真や報道写真に代表される近代的写真表現の成立を中心にすえ、世界写真史の枠組みのなかで独自な写真史観を示したものである。日本写真協会常務理事などを務めた。66年紫綬褒章受章。76年、ニコンサロンで開催された優れた写真展を対象にした伊奈信男賞が制定された。

伊奈信男の書籍