大西茂は、岡山県高梁市の旧家に生まれる。中学時代から、教師に難問を発して困らせていという秀才であった。また、易学の研究を熱心にしたという記録もある。その後、位相数学を研究するために北海道大学に入学。1953年に同校を卒業するが、引き続き大学に残り数学の研究を続ける。ライフワークとも言える理論「超無限の研究」の論文に取り組むとともに、その数学理論を芸術作品として体現した写真作品を作り始める。写真は独学であったが、多重撮影、多重焼付け、刷毛やスポンジによる現像処理、特定の薬品による変色、フィルム加工、現像温度を操作することによる色調の変化等を通じて、意図した以上の偶然性による効果を狙った極めて実験的な制作方法を用いた。
大西によると、写真作品の制作目的は、「対象の成立状態を知ること」で「『存在可能性』とか『任意選択の可能性』などの超数学的命題を追求しようとする気持ちが基礎になって」いるという。1
写真作品の制作は、北海道大学に所属していた1958年頃までであると考えられる。その間、写真を展示する最初の個展を、1955年に東京のなびす画廊で開催しており、瀧口修造と金丸重嶺が案内状パンフレットに文章を寄せている。1957年には、瀧口修造の企画により東京のタケミヤ画廊にて、二回目の個展「第2回大西茂印画展」が開催される。「印画」は、瀧口が大西の写真作品について命名したものである。
この時期、ドイツのオットー・シュタイナートが中心になっておこった「Subjektive Fotografie」の運動を紹介する展覧会が東京へ巡回し、「国際主観主義写真展」(1956年)という名前で、大西も含めた日本人作家も加えられ開催された。大西の写真は、翌年、主観主義写真を特集する『別冊アトリエ—新しい写真』でも主観主義の代表作家として紹介されることになる。しかし、数学的命題を基礎にした大西の仕事は、そのような枠を超え、また写真に留まることもなく、次には墨象の世界へと移行する。大西は自身の数学理論を深化させながら、論文の執筆とともに、それを表現する大きいスケールの墨による抽象画を制作するようになる。
1957年、来日したフランスの評論家ミシェル・タピエ氏の知己を得、同年開催されたタピエの企画によるアンフォルメルの国際展「世界・現代芸術展」(東京、大阪巡回)に墨象の作品が出品される。
その後、タピエは、大西の墨象の作品を、具体美術協会とともに当時フランスで興っていたアンフォルメルの美術運動と関連付けて積極的にヨーロッパで紹介していく。
1969年には、タピエが主宰するトリノの国際美学研究所より大西の作品集『超無限の研究-連続の論理/A Study of Meta-Infinite: Logic of Continuum(1)』が刊行される。頁のほとんどが、大西の論文で占められる異例の作品集である。翌年、ケルンの出版社からも、論文集『超凾数の理論/Super Function Theory』が刊行される。
大西の墨象の作品は50年代末より70年代にかけてヨーロッパで広く紹介されたが、彼自身は国際的な芸術サークルに積極的に交わることもなく、その後は故郷岡山に戻り、独自の数学理論の研究と芸術作品の制作を続けた。

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