ドナルド・ジャッド
Donald JUDD
ドナルド・クラレンス・ジャッド(1928年6月3日-1994年2月12日)はアメリカの美術家。ミニマリズム・ムーブメントの中心的人物であり(彼自身はミニマリズムという言葉を否定している)、戦後のアメリカ美術に最も変革をもたらした芸術家の1人。
ジャッドはこれまでのヨーロッパの彫刻の表現を根本的に変革し、近代彫刻の新しい流れを決定づけた事で一般的に知られる。アルミニウムやコルテン鋼など産業素材と呼ばれるものを芸術に導入し、抽象的な彫刻を制作。色彩、形態における純粋性、空間と作品の関係性を追求した。
年表
1928年、6月3日、ミズーリ州、エクセルシア・スプリングス(Excelsior Springs)に生まれる。
1946年、アメリカ合衆国陸軍に入隊し、1947年まで大韓民国に駐留する。
除隊後、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで、短期間美術を学ぶ。
1948年から1949年まで、ヴァージニア州のウイリアム・アンド・メアリ・カレッジで哲学を学ぶ。
1949年から1953年まで、コロンビア大学で哲学を学び、学位を取得。その間も絵画制作を続け、1950年代は抽象表現主義に影響を受けた絵画作品を制作していた。
1957年から1962年まで、コロンビア大学で美術史家のメイヤー・シャピロのもとで美術史を学び、学位を取得。
1957年、ニューヨークで最初の個展を開く。抽象表現主義の絵画が展示された。
1959年から1965年にかけて、『アート・ニューズ』、『アート・インターナショナル』、『アーツマガジン』各誌で、前衛美術についての作品批評を行う。絵画の終焉を主張し、美術評論家としての高い評価を得る。
1960年代にはいると幾何学的な要素が強くなり、金属の物体を画面にはめ込むレリーフ状の作品を製作。
1962年頃から床に直接置く立体作品を制作するようになる。
1963年、1964年の個展では、カドミウム・レッドに塗られた木を基本にした箱状の立体作品が直接床に置かれた。
1964年から金属やプレキシグラスが用いられるようになり、形態はさらに純化され、直線的な箱型の作品を繰り返し制作する。
1965年から制作されるようになった「積み重ね(スタック)」と呼ばれるシリーズは、壁に直接同型の薄い箱状の立体が縦一列に並べられるものであった。これがジャッドの代表作となり、箱状の立体が反復的に複数並べられる作品は数多く製作されている。
1965年、自らの芸術作品が従来の絵画や彫刻とは異なるゆえんを論じたテクスト、『明確な物体(スペシフィック・オブジェクト)』を発表[1]。
1968年、ニューヨークのホイットニー美術館で、回顧展が開催される。
1971年、戸外に置かれる円形の作品を制作。また、この年からテキサス州マーファ(Marfa)を訪れ始める。
1972年頃から素材に合板を用い始める。
1977年、テキサス州マーファに移住。
1979年、DIA美術財団の援助を受け、テキサス州マーファの陸軍基地跡の廃屋を含む砂漠の土地(1.4 km²)を、自作や他の作家の作品を恒久設置する場所にするために買い取る。
1980年代には特殊な錆付けをしたコールテン鋼を用いるようになる。
1994年、2月12日、ニューヨークにて悪性リンパ腫により死去。
マーファの土地建物は一部をチナティ・ファンデーション(The Chinati Foundation)が、また別の一部をジャッド・ファンデーションが管理している。チナティ・ファンデーションにはジャッドや他のミニマルアートの作家たちの作品が展示されており、これらの作品は一般公開されている。また、ジャッド・ファンデーションはジャッドのドローイングやライティングなどのアーカイブ、また彼が個人所有していた自宅やスタジオ・スペースなどを管理している。
1946年、アメリカ合衆国陸軍に入隊し、1947年まで大韓民国に駐留する。
除隊後、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで、短期間美術を学ぶ。
1948年から1949年まで、ヴァージニア州のウイリアム・アンド・メアリ・カレッジで哲学を学ぶ。
1949年から1953年まで、コロンビア大学で哲学を学び、学位を取得。その間も絵画制作を続け、1950年代は抽象表現主義に影響を受けた絵画作品を制作していた。
1957年から1962年まで、コロンビア大学で美術史家のメイヤー・シャピロのもとで美術史を学び、学位を取得。
1957年、ニューヨークで最初の個展を開く。抽象表現主義の絵画が展示された。
1959年から1965年にかけて、『アート・ニューズ』、『アート・インターナショナル』、『アーツマガジン』各誌で、前衛美術についての作品批評を行う。絵画の終焉を主張し、美術評論家としての高い評価を得る。
1960年代にはいると幾何学的な要素が強くなり、金属の物体を画面にはめ込むレリーフ状の作品を製作。
1962年頃から床に直接置く立体作品を制作するようになる。
1963年、1964年の個展では、カドミウム・レッドに塗られた木を基本にした箱状の立体作品が直接床に置かれた。
1964年から金属やプレキシグラスが用いられるようになり、形態はさらに純化され、直線的な箱型の作品を繰り返し制作する。
1965年から制作されるようになった「積み重ね(スタック)」と呼ばれるシリーズは、壁に直接同型の薄い箱状の立体が縦一列に並べられるものであった。これがジャッドの代表作となり、箱状の立体が反復的に複数並べられる作品は数多く製作されている。
1965年、自らの芸術作品が従来の絵画や彫刻とは異なるゆえんを論じたテクスト、『明確な物体(スペシフィック・オブジェクト)』を発表[1]。
1968年、ニューヨークのホイットニー美術館で、回顧展が開催される。
1971年、戸外に置かれる円形の作品を制作。また、この年からテキサス州マーファ(Marfa)を訪れ始める。
1972年頃から素材に合板を用い始める。
1977年、テキサス州マーファに移住。
1979年、DIA美術財団の援助を受け、テキサス州マーファの陸軍基地跡の廃屋を含む砂漠の土地(1.4 km²)を、自作や他の作家の作品を恒久設置する場所にするために買い取る。
1980年代には特殊な錆付けをしたコールテン鋼を用いるようになる。
1994年、2月12日、ニューヨークにて悪性リンパ腫により死去。
マーファの土地建物は一部をチナティ・ファンデーション(The Chinati Foundation)が、また別の一部をジャッド・ファンデーションが管理している。チナティ・ファンデーションにはジャッドや他のミニマルアートの作家たちの作品が展示されており、これらの作品は一般公開されている。また、ジャッド・ファンデーションはジャッドのドローイングやライティングなどのアーカイブ、また彼が個人所有していた自宅やスタジオ・スペースなどを管理している。
出版物
・1975年にオタワにあるカナダ国立美術館はジャッドの展覧会と作品集を出版。
個展
・1957年にパノラマ・ギャラリーでジャッドは初個展を開催。
グループ展
・1968年にニューヨークのホイットニー・アメリカ美術館が回顧展を開催。
・1980年に初めてヴェネチア・ヴィエンナーレに参加し、1982年にカッセルのドクメンタに参加。
・1987年にオランダのファンアッベ市立美術館での大規模な個展を開催。この展覧会は、デュッセルドルフ、パリ、バルセロナ、トリノへ巡遊した。
・ホイットニー美術館は1988年に2回目の巡遊回顧展を開催。
・2004年にテイト・モダンで展覧会が行われた。
・1980年に初めてヴェネチア・ヴィエンナーレに参加し、1982年にカッセルのドクメンタに参加。
・1987年にオランダのファンアッベ市立美術館での大規模な個展を開催。この展覧会は、デュッセルドルフ、パリ、バルセロナ、トリノへ巡遊した。
・ホイットニー美術館は1988年に2回目の巡遊回顧展を開催。
・2004年にテイト・モダンで展覧会が行われた。
収蔵
ジャッドの作品は、オーストリア国立工芸美術館(ウィーン)、テヘラン現代美術館(イラン)、スイス近代美術館(スイス)、テイト・モダン(ロンドン)、シカゴ現代美術館(シカゴ)、サンフランシスコ近代美術館(カリフォルニア)、ヒューストン美術館(ワシントン)、イスラエル美術館(エルサレム)など世界中の美術館で収蔵されている。