Zen Foto Gallery Book Review

禅フォトギャラリーは、2009年9月にマーク・ピアソンによって設立された、アジア諸国の写真を専門的に紹介するギャラリーです。展覧会の開催のみならず、写真集の出版を活発に行っており、刺激的な写真作品を継続して提示しています。今年で記念すべき10周年を迎える禅フォトギャラリーがこれまでに刊行した出版物を再俯瞰する、ブックレヴューページを特設しました。(レヴューは随時更新され、掲載タイトルが増える予定です。)


FLASH UP』倉田精二

The Ramones Blitzkrieg Bop

Sigmund Freud

五感に音と思想が鳴り響く。
人間の行動の原理はリビドーなのだと、圧倒的な破壊力を持って、視覚から脳天を倉田の斬り撮る街のパンクスに撃ち抜かれる。

街が街の思想を持っていた1970年代、東京。
世間の道理など無視して人々の欲望が自由に生きていた。

人は生まれる時代を選べない。
写真家であればこれ程に、写欲を掻き立てられる時代はないのではないだろうか。
文化が街、人、生活に密接し、日本独自のカルチャーが煌めく。
それは、倉田の視線のマジックにより、2000年世代に生きる私たちにかけられたアトラクティブなフィルターによる仕業なのかもしれない。
倉田写真が視覚に定着させる、写真軸の超加速と時間停止のタイムトリップが、より一層高揚させるように思う。

そして、不条理など蹴散らして、自由に、欲望に従って生を鳴らせと、覚醒しろとひと蹴りされる。
覚醒した先はきっと、時代など関係なくどんな時代でも撮れるものがあると、自分自身の目の感度なのだと、カメラを手に街へ飛び出すことになるだろう。

“鈍るな”

倉田のビートは警鐘を鳴らす。

“Are you ready?
Yes,OK. Let’s go.”

― Jeong Imhyang


猫が…』西村多美子

男と女の間には深い深い川が流れているというが、女と女の間には何が流れているのだろうか。
西村をふと友達がたずねて来たひと夜に、撮られた一連の写真に写るは、女と女の茹だるような湿度である。
その湿度が鬱々たる夜を支配し、モノクロームの粒子を色添う。
物質的“女”から外された西村の視線は、女を撮る行為とは、女だけが持つ不可解な謎を解く行為でもあることを射影するかのようだ。
外された視線は、“女”をなじりながら、虚々実々にピントを這わせる。
論なく、写真の上では男女の違いはない。
個々の違いである。
しかし、西村の視線からは女と女の間に写るは、男と女では写しえない無軌道な何かが存在しているように思う。
“見られているな”と感じるまとわりつく視線の湿度は、その何かの実体であり、女が女を見ることのアンビバレンスではないだろうか。

― Jeong Imhyang


網膜直結指先目カメラ』須田一政

“今”を乞うことは、渇きにも似ている。
時間は不確かで、現実の尾っぽを掴みかけた途端、過去へと姿を隠す。
本書は須田が「未練の箱」に収めていた、ミノックスカメラによって撮られた膨大な写真の一群である。
須田はミノックスカメラを“網膜直結指先目カメラ”と名付け、1991~1992年の間そのカメラのとりことなった。
網膜直結指先目カメラは名付けた通り、須田の時間軸に添い、日常を包括した。
その日常の時間軸は、真も偽もなくただ真摯に“そこにあるもの”として存在している。
須田の視線は日常の中、経過していく“そこにあるもの”をとどめ記憶の具現と化す。
時間とは人が作り出した現象に過ぎないと辛辣に説くように。
その完成された記憶は、ようやく手中にした“今”への未練としていつか⋯⋯、を待っていたのではないだろうか。
写真憑きたるものがあるならば、須田写真にそれを見たように思う。
網膜直結指先目カメラを呼び寄せたのは、その写真憑きたる須田の見ることへの執着だったのかもしれない。
須田の網膜の記憶は、時間経過と共に変化する、日常の真理値へ抗うことへの刻印だったのではないだろうか。

― Jeong Imhyang


恐山へ』須田一政

旅の終点はどこにあるのだろうか。
輪廻をふと思う。
幾度となく須田が訪れた恐山。
宇宙の微粒子ほどの、人としての時間は、肉体を借りた旅であり、魂は永遠に続く終点なき旅であることを蒙る。
恐山は死後の世界と、死者に寄り添う霊場である。
卒塔婆、風車、河原に積まれた石の数々、口寄せをするイタコは、この世に残された者からの死者への思慕。
須田の恐山からは、恐山自体ががシャーマニズムそのものであり、また、写真行為は口寄せなる行為でもあることを黙考させられる。
今作では、東北各地で写しえた写真も収められているが、個々の独立した旅だったのにも関わらず“恐山への道すがらの風景”となりえたのも、写真行為の誘因だったのではないだろうか。
旅の寝坊で、ふいに須田の口からこぼれた言葉は亡き母への「お母さん」。
死者を思えばどこでも霊場となるが、その言葉は繰り返し訪れた恐山での真実の瞬間であり、写真行為もまた、輪廻のごとく終わりなき旅であることを、その行為の凄烈さが、深深と視覚に残像する。
須田の“恐山へ”は、人として今世を生きる真理の旅への論究なのではないだろうか。

― Jeong Imhyang


走馬灯のようにー釜ヶ崎2000・2014』須田一政

真夏の昼下がりの幼き日、父に手を引かれ訪れた釜ヶ崎は、朧げに今でも記憶に残っている。
木造の長屋と寺がひしめき合い混在し、整備されていない歩道には犬の糞が夥しく点在していた。
今作は須田が2000年・2014年に釜ヶ崎を撮り収めた二部作となっている。
ハーフサイズカメラで撮られた2000年釜ヶ崎。
釜ヶ崎の咽せる匂いと行き交う人々の息の緒の中に向けられるのは、まるでドアをノックしてお邪魔しますと言わんばかりの紳士的な須田の視線。
その視線に渋るは、街からの“よそ者”への訓戒。
しかし、須田の写真に写るはその訓戒ではなく、街の淡々刻々と流れる已今当である。
そこに行き尽きた人々だけが見る求不得苦、ある種の桃源郷を須田の撮り感で察し、自身を無の存在化とし、通りすがりの“誰か”の現し身となることで写しえた、須田の目視的行為の骨頂なのではないだろうか。
また、2014年に中判カメラで撮られた釜ヶ崎は2000年の釜ヶ崎とは対照に遠隔地に存在しているかのようだ。
転校生が夏休みに生まれた街に戻り懐かしみ、興がるような街の童心が写る。
須田自身も本書で綴っているように、街が変化したのではなく須田の視線の行先で街は姿を変えたのだ。
それは街を撮った者と、存在し続ける街だけとしか体現出来ない濃密な不可思議さであり、須田の釜ヶ崎二部作はその不可思議さが“走馬灯のように”時空を漂っている。

― Jeong Imhyang


oh my little girl』陳偉江

受け入れること。受け入れられること。
写真の中だけで成り立つマジカルなロマンが詰まった陳偉江の“oh my little girl”
これまでに陳偉江は極私的に彼が対する人物との関係を発表してきたが今作ではある一定のポップな距離を持って制作されている。
彼と彼女との関係にしか写りえない軽妙さとひとさじの反逆。
自己受容を一点の矛盾もなく黙諾される幸福。
それは男のそれ、すなわちロマンなのではないだろうか。
ロマンの前で女神に黙諾される
溢れる言葉は
oh my little girl…….

― Jeong Imhyang


新宿迷子』梁丞佑

新宿歌舞伎町。
その街は欲望という結界を纏っているかのような街である。
足を踏み入れた途端どこからか聞こえてくる御霊の呻く声。
”なしえなかった”人々の浄化されぬ魂が未だその街をさまよっている。
その街は欲する者には赤子に添い寝する母のごとく擁する。
欲になしえなかった者達には厳格なる父のごとく背を向ける。
梁はその街に1998年から2006年の間余すことなく目と目を合わせている。
今作の中に出てくる”若者心得”のごとく。
彼の目は今は亡き御霊ではなく今ある生に獰猛に執拗にそして慈悲を持って向かっている。
彼は人間の欲する先をその街に見てしまったのだろう。
見てしまった以上街が変貌しようとも後戻りは出来ない。
彼の写真を見た者は彼のその街を見続ける尋常ではない覚悟と尊さを目撃する。

― Jeong Imhyang

禅フォトギャラリーは、2009年9月にマーク・ピアソンによって設立された、アジア諸国の写真を専門的に紹介するギャラリーです。展覧会の開催のみならず、写真集の出版を活発に行っており、刺激的な写真作品を継続して提示しています。今年で記念すべき10周年を迎える禅フォトギャラリーがこれまでに刊行した出版物を再俯瞰する、ブックレヴューページを特設しました。(レヴューは随時更新され、掲載タイトルが増える予定です。)


oh my little girl』陳偉江

受け入れること。受け入れられること。
写真の中だけで成り立つマジカルなロマンが詰まった陳偉江の“oh my little girl”
これまでに陳偉江は極私的に彼が対する人物との関係を発表してきたが今作ではある一定のポップな距離を持って制作されている。
彼と彼女との関係にしか写りえない軽妙さとひとさじの反逆。
自己受容を一点の矛盾もなく黙諾される幸福。
それは男のそれ、すなわちロマンなのではないだろうか。
ロマンの前で女神に黙諾される
溢れる言葉は
oh my little girl…….

― Jeong Imhyang


新宿迷子』梁丞佑

新宿歌舞伎町。
その街は欲望という結界を纏っているかのような街である。
足を踏み入れた途端どこからか聞こえてくる御霊の呻く声。
”なしえなかった”人々の浄化されぬ魂が未だその街をさまよっている。
その街は欲する者には赤子に添い寝する母のごとく擁する。
欲になしえなかった者達には厳格なる父のごとく背を向ける。
梁はその街に1998年から2006年の間余すことなく目と目を合わせている。
今作の中に出てくる”若者心得”のごとく。
彼の目は今は亡き御霊ではなく今ある生に獰猛に執拗にそして慈悲を持って向かっている。
彼は人間の欲する先をその街に見てしまったのだろう。
見てしまった以上街が変貌しようとも後戻りは出来ない。
彼の写真を見た者は彼のその街を見続ける尋常ではない覚悟と尊さを目撃する。

― Jeong Imhyang