Zen Foto Gallery Book Review

禅フォトギャラリーは、2009年9月にマーク・ピアソンによって設立された、アジア諸国の写真を専門的に紹介するギャラリーです。展覧会の開催のみならず、写真集の出版を活発に行っており、刺激的な写真作品を継続して提示しています。今年で記念すべき10周年を迎える禅フォトギャラリーがこれまでに刊行した出版物を再俯瞰する、ブックレヴューページを特設しました。(レヴューは随時更新され、掲載タイトルが増える予定です。)


A Bastard Son』Brian SERGIO

本作は、フィリピン・マニラ出身の写真家ブライアン・セルジオの視線を通して撮り収められた、フィリピンの無法地帯のストリートスナップである。

街の喧騒、お腹を大きくした若い女性、路上の子供達、刺青の男、ゴーゴーバー。
“生きる為”の街。

欲と生がなまめかしく街を這う中、セルジオの視線は路上で生きる子供、ストリートチルドレンに近づいていく。

性ビジネスは立派なビジネスである。
需要と供給が明白に理に適っている。

宗教上、金銭的、或いは宿ってしまった母性などの理由により、産み落とされた生。
これは、フィリピンに限らず日本とて他人事ではない。

日本の様に、雨後の筍のように、どの街にも性風俗が満映している国は珍しい。
日本では、性風俗としてビジネスが成立しているにも関わらず、認可のある低容量ピルは諸外国より高額。緊急避妊薬も日本では未だ処方箋が必要な上、1.5万円前後と高額のままである。
中絶手術においても、母体に負担の少ない中絶薬には認可がなく、未だ掻爬法。
WHOが安全でない方法としている掻き出す術式である。
それとは反対に、勃起不全治療薬バイアグラは異例の速さで認可されている。

ニュースを見れば、児童の悲しいニュースを見ない日はない。
誤解なきよう理解頂きたいのは、悲しいニュース、ストリートチルドレンの原因が、女性が性ビジネスにおいて招いた事ではない。

恋愛においても、性ビジネスにおいても、宿る可能性がある生において、国が取る措置として、男性と女性の因果関係なるこの性ビジネスの縮図が、一番分かりやすいのである。
忘れてはいけないのは、そこには常に男性の存在があるという事だ。

恋愛をして、好きになって、愛する人の子供が欲しいと願うのは女性の本能である。
その上で、願っても叶えられない生もあり、女性を守るためにも、悲しい生が宿る事なきよう女性が選択出来る未来を、今一度考察すべきであり、セルジオの問いは国際的課題であると私は思う。

平等などなく、不条理が当たり前のこの世。
しかし、その当たり前が産み出した”様”が毎日流れる悲しいニュースであるのだ。
― Jeong Imhyang


LET ME OUT』菱沼勇夫

馬の頭、血の裸体、凶器、三角のモチーフ。血族を思わせる男。マスク。
本作は、菱沼による世と自身の内面と外面の、相違から起こるイメージを具現化したカラーで撮り収められた、セットアップの写真群である。

撮り収められた“物”は、菱沼による造形物であり、リアルとアンリアルの狭間で立つ自身のセルフポートレイトの様でもある。

実際に、自身を撮り収めたカットも収録されているが、一貫して全てのカットに、菱沼の自身への叫びが写り宿っている。

“私を出して”

菱沼は、いわゆる社カメとして働く中、一週間程旅したジャマイカに魅了され会社を辞め再び数ヶ月滞在し、今まで向き合えなかった自身の得体の知れないモヤモヤに気づき、本作のLET ME OUTに辿り着いたという。

ジャマイカ滞在時に撮られた写真群が私は好きだ。
人の瞬時を愛でる様な、憑依するようなドキュメンタリズムを菱沼は持ち合わせている。
ここへもう一段高く飛んで戻る為にも、避けては通れない“自己喪失”が必要だったのではないかと思う。

都会で暮らし、現代社会のレールの上を歩いていると、時間は時を追うだけの“物”であり、食も生を補充するだけの“物”となり、全ての思考は、効率よくこなすだけの“物”へと向かう。

本シリーズは、その“物”化した得体の知れないモヤモヤを、写真という二次元に投影することで具現化し、それを留め、自己喪失へと向かう儀式にも似た、菱沼の写真行為だったのではないだろうか。
― Jeong Imhyang


井上青龍

釜ヶ崎の子ども

京の都

ひとと石

1960-1970年“釜ヶ崎”で、鮮烈に世に写真を轟かせた井上青龍。
今や伝説の写真家である。

“狼が抜き身で歩いているような男”は、釜ヶ崎に住みつきながら写真を撮り続けていた。当時の釜ヶ崎は暴動や喧嘩が絶えない地域であり“他者”が向けるレンズなど、争いの火種でしかなく、それ故、話合いや喧嘩にもなった。その果てに、人々と酒を飲むことで仲間が増えていったという。

「人間そのものが泣きたくなるほど好きになり、死んでしまいたいほど嫌いになる場所」
この言葉が、井上が暮らした釜ヶ崎の日々、人、街を物語る。

人を撮ることは自分を減らす。減らした分だけ人に写真が宿る。

ひとと石/京の都。
一貫として井上の人への慈愛が抜き身で歩いている。狼は、誠実さを隠すが故だったのではないだろうか。

釜ヶ崎以降井上は行き詰まり、長い空白時間を要した。

「結局、釜ヶ崎を変えることはできなかった。」

釜ヶ崎を撮ってから25年後、ようやく写真集が刊行され、井上は新たな撮影に挑んだが、南の海にさらわれ逝ってしまった。
人と誠実に向き合い、自身のジャーナリズムを信じ撮り減らした分、少し早い死期であった。

私は嘘がない写真を初めて見た気がした。

写真家である前に人間。
人間で生きることの本当の根底を、教えられたように思う。

井上が自分を減らして撮った分、今もなお、こうして、私たちに写真を宿してくれている。

― Jeong Imhyang

釜ヶ崎の子ども
釜ヶ崎の子ども
京の都
京の都
ひとと石
ひとと石

香港好運』エリック

香港に生まれたEric。
Ericが香港を後にし、日本に来たのは、1997年香港が中国に返還された年だった。

国の未来への不安から、友人たちはカナダ、アメリカ、ヨーロッパへと向かった。
彼らの不安をよそに、Ericが国を出たのは“国際的家出”だった。

Ericの両親は中国出身だが、文化大革命の頃、香港に密入国し亡命した。
長い間自意識に災いされ、撮影することはなかった中国に2005年旅に出た。

本書は、Ericが中国でのスナップを撮りまとめた“中国好運”に継ぎ、香港に戻り真っ正面から香港と向き合い、撮影されたスナップ写真群である。

セットアップかと疑う程の至近距離。
人の心臓を斬り撮るような距離である。すれ違いざまに撮られた、1秒にも満たないその瞬間にその人の刹那を封じ込める。
その刹那は、写真でしか成り立たない、写真にしか存在しない“時間”を生け捕る。

その時間は、人が持つ本質的エナジーを爆発させ、あっという間に視覚から心に触れとてつもない速さで体からすり抜けて行く。
まるでカマイタチの様に。

個と群衆、情勢蠢く2019年、香港。
ここにある、香港を、人々を、自由を切に願う。

この本質的エナジーに、再び出会いたい。

― Jeong Imhyang


1973 中国』北井一夫

日本の闘争の歴史の重要な局面にカメラを向け、社会と写真への反抗として世に写真集という形で示した“抵抗”だったが、時代の流れと共に左翼急進主義は変貌し、北井のプロテストとは大きくかけ離れていった。
左翼急進主義に幻滅した北井の視線は、農村の生活へと向かうようになった。

その中、1973年木村伊兵衛より自身のルーツでもある中国への旅の誘いを受け同行した。
本書は、その時に撮られ記録されたモノクロームの写真群である。

1973年の中国は共産党政権が24年を迎え、文化大革命7年目の年にあたる。
外部とは遮断され、混乱と内部抗争に揺れる激動期であったが、北井写真に写るは、人々の穏やかな日常である。

カメラという“異物”に違和感を覚えながらも、好奇心に満ちた顔でレンズを覗きこむ人々。卓球やアコーディオンに勤しむ子供。荷台に子供を乗せている老婆。
印象的なのは、北井のレンズに笑顔を向ける人々の顔である。

北井は日本の敗戦の8ヶ月前、1944年に旧満州鞍山市で生まれた。
日本帰国時はまだ1歳未満であったが、北井にとってこの旅は、失われた幼児体験の過去を喚起する旅となった。

生地や血のルーツは、意識の中に漠然とどこか、少し重い暗さを帯び育つ。
幼児期の記憶は残らないというが、母から聞いていた中国は、自身のルーツの記憶として知らぬ間に“失われた幼児体験”として、北井の意識に記憶されていた。

中国への旅先の風景に自身の幼少期の姿を探し、失われた記憶に心を重ねたのは、家族の苦しみの中にもあったであろう希望と幸福の記憶を見たかったからではないだろ
うか。
そのことが、激動期にいる人々の笑顔を誘引したのではないかと私は思う。

― Jeong Imhyang


涅槃の谷』山縣勉

涅槃。
<一切の煩悩から解脱した、不生不滅の高い境地。転じて、釈迦や聖者の死。入滅。>

本書は、山縣の父が癌を患い、その治療方法を調べるうちに辿り着いた、癌治癒のために集う東北の谷を撮り収めたものである。

湯治は日本に古くから存在する治療法である。中でも、癌治療に効力がある放射性元素を含む北投石が産出されるのは、日本ではこの谷だけである。
その石から放たれる放射線の効力を求め、人々は山を中心に横たわる。
山縣はその光景を初めて見た時、涅槃図を思い出したという。

癌は今では、現代の医療の進歩に伴い、死が近い病ではなくなろうとしている。
しかし、患った年や性別、癌細胞がある臓器の場所によっては、とても厳しい治療や手術を伴い、死を予感させる。

予感は人々を、魂の療養ともなる湯治場に向かわせる。湯治場はその人々の生と死を受容し、ただそこに存在し続ける。

沸騰し流れる川。
湧き上がる煙。
転げ繋がるように点在する岩。
人々の祈るような思いが、モノクロームに静かに咽び定着する。
撮る行為とは、その光景に添うことでもある。

“安寧の世界への準備と循環する生”と、記す山縣はその光景に添い何を見たのであろうか。
厳しい治療を経て、緩和への道を探り、人々がその谷に足を向けたことは、涅槃とは裏腹に生への渇望であり、捨てることなき生への希望であると私は思う。

祈りが定着したモノクロームの先を、今一度山縣に問いたい。

― Jeong Imhyang


香港』山内道雄

中国返還直前の香港。
本書は、1995-1997年にかけて山内が2、3度渡航を繰り返し訪れ、時代の波に蠢く香港を撮らえた写真群である。

街の狂熱がモノクロームにざわめく。
情勢と共に歩んだ、混沌とした街のエナジーが、山内の撮らえる視覚を加速する。
飢え空かせた腹を満たすよう、貪り食べるように、街を撮り尽くしていく。

スナップ写真が持つ秩序と無秩序が、香港の秩序と無秩序に綯交じる。
山内特有の距離は、貪欲な写欲とはうらはらに、しゃなりしゃなりと身をこなし、人々の顔、路上に近づいては離れ、街のエナジーを可視化していく。

なぜ、スナップなのか?
なぜ、街なのか?

数え切れないぐらいのスナップ写真に遭遇する。
その度に浮かぶ答えは、正解であり不正解なのだと、山内写真が嘲笑う。
人間の本能で撮らえる写真に、答えなど存在しない。
答えが見えたらとっくに、写真を撮ることを終わらせているだろう。

街を彷徨い、路上を歩き回り、生きている”生”を探し、腹が満たされるまで撮り続ける。
撮り切られた街は、山内の見た香港であり、それ以上でもそれ以下でもない。
そのことは、写真に向き合う山内の誠実さと、ある種ニヒリスティックさをも合わせ持つ、本能を現す。
山内写真からは、スナップ写真に向かい、惹きつけられる原理の塊を見せつけられたようだ。

― Jeong Imhyang


西山温泉』橋本照嵩

山梨県南巨摩郡早川町の最西部に位置する湯治場、西山温泉。

橋本は、度々湯治場を旅した。
秋田県の田沢湖から鶴の湯、妙乃湯、黒湯などの乳頭温泉郷。新潟県の大湯や栃尾又の湯治場。

湯治場とは、その名の通り湯治する場所だ。
日本において湯治という行為は古くから行われていた。医療の技術が十分に発達していなかった時代に、その伝聞されていた効果を期待し、温泉療法として病の回復を試みていた。
その為、湯治場は観光客や保養客は相手にせず、山間僻地の質素な温泉地が多く、娯楽施設はほとんどなく、食事も多くは自炊が基本となっている。

本書は橋本が旅する中、1974年、東京の中央線で比較的身近かに行ける、西山温泉を知り出向いた際に撮り収められた、一週間の記録である。

モノクロームの湯気とともに、人々の笑い声が視覚に反響する。
働き者が自分の体を癒す場所。おじさま、おばさま揃って”いい湯だな、あはは”とばかりに。
おばさま達の肌は、艶やかに湯をゆらす。おじさま達は肩身が狭そうに、どこかしら嬉しそうに遠慮がち。代わる代わる自慢の歌声が湯治場に鳴り響く。
働き者が持つ、皮膚の歴史を携えみんな湯に浸かる。

湯治場は温泉旅行とは違い、自身の疾病の効能を上げるため、長期滞留し温泉療法を行う。現代社会では、休みを取るのも一苦労だが、古くから人々は、そうして自身の体を労わることを忘れずにいたのだ。

橋本写真に写る西山温泉の人々の顔が物語る。

「我慢、我慢、頑張って、頑張って。頑張っても病が貯まる。貯めていいのは幸せとお金だけ」

現代でも湯治場は数多く残っており、私たちがせかせか働くたった今方でもそれに気づいた人々は湯をゆらし、声を鳴らし働く体を療養しているのだ。

体を休めるということは、心を休めるということでもある。
心が正常であれば、何度でもどんな困難にでも立ち向かえる。

橋本写真は、そんな当たり前のことを思い出させてくれた。

― Jeong Imhyang


Showa 92』薄井一議

Showa 88/昭和88年、Showa 92、Showa 96、Showa三部作となる第二作目。
もし“昭和”が別の時空で続いていたら⋯⋯。と、昭和を生き抜く力の象徴と捉える、薄井の昭和虚実の写真的メタフィクション。

津軽の人形婚、日本最後の見世物小屋、元任侠の三線弾き、秘宝館、闘犬。
現代社会からは隔離された、日本のアウトサイド文化。
その文化の再構築を、薄井の方法論を通して、写真というメディアで示した並行世界。

日本のアウトサイド文化には現代では禁忌とされるものが多く存在する。
犬神もその一つである。
犬神の作り方は、首だけが地表に出るように、生きた犬を埋める。犬の目の前に食べ物を置き、決して食させる事なく飢えさせる。
餓死寸前になった頃、鉈や斧で首を一刀のもとに斬り落とす。
斬り落とした頭部を辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念を増し、呪物として祀る。
私は“それ"に触れたのは10代の頃だった。

薄井が自身による寄稿文で記しているが、かつて日本の歴史の中で“士農工商”には入れなかった人々が、生き抜く為に作ってきた文化があった。

“それ”は宗教観、死生観と共に、畏敬と信頼を得るために発展した。

その中での生には、白も黒もなくグレーもない。
一択しかないのだ。
生きていくしかない。

時代は変わり街も変貌を遂げ、アウトサイド文化の俗っぽい見た目だけは排除されつつあるが、擦り込まれたそれの一択は、心臓に、皮膚に脳髄に這うように、それを受け継ぐ者の中に生き続ける。

現代日本では、アウトサイド文化の一言で、片付けられるその文化に、生き抜く力の象徴とし、薄井がそれに惹かれ憧れたのは、その這うような生の呪物に薄井自身が“憑かれた”からかもしれない。

― Jeong Imhyang


』梁丞佑

平成の新宿歌舞伎町を撮った“新宿迷子”で土門拳賞を受賞。
新宿迷子では、歌舞伎町を獰猛に執拗に撮り添った。
今作は、横浜市寿町に目を据えて、2002-2017年のおよそ15年もの間、梁が“人”と撮り向き合った写真群である。

ざらついた皮膚のようなモノクロームの粒子からは、たじろぎながら寄せては返す“人”の命の呼吸が聞こえてくるようだ。

どの人にも、どの街にも、見てはいけない狭い闇がある。
梁の目は、いつもその闇のぎりぎりの淵に据えられる。

新宿迷子からは、見てしまった者の尋常じゃない覚悟と尊さが、視覚から切迫してきたが、今作ではどこか、赦し、忘却、水に流す⋯⋯、という言葉が浮かんでくる。

それは梁の慈愛が、人の闇と目を合わせてしまったからではないかと思う。
そこにあるのは、ただ人が生きるという事であり、その事の刹那だけなのである。

人の善意も悪意も内包して、梁の目はただそこにごろりと寝転がる。
「ああ、そうか。人が生きるということは⋯⋯」と。

撮るということは、通りすがりの誰かの人生でさえ、撮ってしまえば、その人の人生の一端を盗んでしまう。その行為は、時には暴力となり、愛ともなる。

梁はその人の人生を愛することを選び、記憶していくことを選んだ訳だが、記憶することもまた、消えていくことと同じであり、記憶しても消えていく写真行為の刹那と、人がただ生きるということの刹那が“人”を交差し、撮ることの儚さがより切実に響く。

― Jeong Imhyang


過激派』北井一夫

1965年、全学連デモに沸く東京を疾走し、社会と写真への反抗として世に写真集という形で示した“抵抗”。
本作は、その“抵抗”の続編の意を込め“北井一夫作品集2”と記されている。

日本大学芸術学部在学中より独学で写真を撮り始めてから、横須賀米軍基地への原子力潜水艦の寄港に対する反対運動、大学中退後からは反戦闘争、全共闘運動、新東京国際空港建設反対闘争。

日本の闘争の歴史の重要な、由々しき事態のど真ん中に、北井は目を向け続けた。
擦り傷だらけのフィルムには、ボケ、アレ、ブレが北井の反抗として定着されている。
これらの表現的要素は、後年の森山大道、中平卓馬らPROVOKEメンバーらに大きな影響を与えたことはあまりに有名だ。

北井の目は路上デモと路上の日常を渾然とし、確かにそこに存在した生の時間を記録する。
その生の時間は思想を宿し、闘争することを足踏みするこの令和の時代にも、モノクロームに反抗の粒子として宿り続けている。

北井写真が他のドキュメンタリー写真とは、違った方法論の上で成り立っているのは、自身のプロテストに添うジャーナリズムを、ある種私物化し、一本の映画のごとく仕立てれているからではないだろうか。

一枚一枚の写真は、非常に繊細で、ジャズが鳴ればブルースも鳴り、そしてクラシックも鳴る。即興で奏でられる写真音は、よりドラマティックなモノクローム映画と姿を化す。

“抵抗”を撮った二十歳の時から、写真家として50年銀塩フィルムと印画紙で制作してきた北井だが、銀塩には別れを告げ、新しい写真はすべてデジタルで撮り残す決心をした。

横須賀基地の街をカラーで撮ったものを、50年経って初めて本来の色付きで写真を見たことが、自身の50年という月日を思わせた。

カラーが持つありのままのリアリティと、デジタルの“速さ”を前にし、再出発を決めたのはこの時代には定着よりも、速さが問題なのだとする北井の鋭さに“過激派”が、まだ北井の中に轟いていることを見る。

― Jeong Imhyang


』北井一夫

東日本大震災。
2011年3月11日。14時46分。

北井が二十代の頃から繰り返し旅行した、青森、岩手、宮城、福島は一瞬で姿を変えた。

北井はいたたまれず、自分の目で確かめるために被災地へ旅に出た。
度々訪れていた村は、どこへ行っても津波にさらわれ消えていた。

本書で北井は、何も無くなった被災地の地面から”道”の痕跡を辿り、北井が出生した中国鞍山からの、日本敗戦による引揚者としての、自身の家族の重い道のりを重ねあわせた。

編成された積石と街と海のカットに、自然と人との逃れられない無言のサクリファイスを見る。
地球という自然と共存することの定めと思うほか、心の落ちどころはない。
自然災害は、あまりにも悲しみを生むからだ。

災害は、一瞬で人々の日常を奪い去る。
私は15歳の時に被災した。

全ては丸焦げに焼け散り、昨日笑っていた人も目の前で丸焦げに焼けた。
体育館は死体の山で、人間の尊厳など、どこにもなかった。

しかし、今思えば”道”だけは、街と人が生きていた痕跡となり存在していた。

北井はその道に、ひたすらシャッターを切った。
道には命があるようだと。

親切だった人たちが歩いた道、全てを失った村の道、引揚者としての自身の道。
たくさんの道を撮り収めてきた北井が、被災地の道で示したものは、暗くのたうち回る苦難の中でも、それでも人は自身の道を歩むことの中にしか、新たな道はないということだったのではないだろうか。

― Jeong Imhyang


《復刻新装版》港町エレジー』石川真生

沖縄の港町。
男達の荒い皮膚、怒号、酒の咽ぶ匂い、畳の擦れる音、海風。

写場は、石川が居酒屋を経営していた、1983-86年の那覇市安謝新港。

石川は、1972年の沖縄日本復帰を経験し、これまで一貫として沖縄人と沖縄に関係することのみを、撮影し続けている。

本書は、1990年に私家版として出版されたものを、25年の時を経て装幀と編集を改め、復刻新装版として出版されたものである。

そこに写るは、港街の男達の刻まれた“生い立ち”
石川の眼は、瞬時に生い立ちを背負った、男達の顔を撮らえる。
男達の匂い、音、感触が生々しく視覚を越えて、身体に纏わりつき、男達のエレジーが心臓に鳴る。

日本には全ての物に、命が宿るという考えが強く存在する。
石川の写真を見ていると、その汎心論を直視させられるように思う。

写真という物を通して、男達の当時の命が宿っているのだ。

本書を出版するにあたり、25年ぶりに石川自身により、初版に収録されていたネガとプリントは見直されたが、一部消失されており、当時未収録だったカットが、新たに収録されている。

石川のネガやプリントは、それぞれの命による天命に沿い”定められたこと”として消失され、また、残されたように思う。

男の命も写真の命も宿し、受動する圧倒的な石川の力は、生きていくということの中にだけある、命の芯みたいなものなのではないだろうか。

― Jeong Imhyang


American Monuments』楠哲也

過去と記憶。

過去は戻って来ない。
記憶だけが戻ってくる。

本書は楠が、精神的な病を抱えた元妻と、アメリカを放浪した日々が動機となり、独り身となった2014年の暮れに、再びアメリカに赴き撮影された写真群である。

冒頭の1カット目が、元妻と放浪した三年半もの過酷な月日を物語る。
まるで過去への手向けの花のようである。

撮る愛もあるが、撮らない愛もある。
残酷だが、共に放浪した元妻との日々を撮り収めたか、聞いてみたい衝動にかられる。

本書に写る、楠の最も辛かった過去への旅は、その記憶を出た時に、新しく人生を始めることへの赦しを乞う旅のようにも感じる。

なぜなら、カラー写真でまとめられた、楠の“AMERICAN MONUMENTS”は、アメリカという土地とカラー写真が放つポップさとはうらはらに、人々の表情や街がどこか憂鬱なモノクロームを、纏っているかのように見えるからだ。

その憂鬱さが、楠の過去と記憶が蘇生し写しだした、AMERICAN MONUMENTSそのものであり